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国会が無力化した夜

 共謀罪(テロ等準備罪)法案を巡って、国会は完全に無力であった。

 

法案が可決したからではない。法案が可決することは、かねてから予測できていたことだ。

議院内閣制のもとでは、原則的に政府提出の法案は100%可決する。法案が可決したことだけを見れば、それは当たり前のことだ。しかし、その過程において国会は無力であった。

 

以下、共謀罪真偽をめぐる疑問点を提示したい。

 

1. 金田大臣は本当に法務大臣として適切な人間なのか?

かつての国会には、少なくともあのような稚拙極まりない答弁をする人間を、より適切な人間に変更するだけの自浄作用が働いていたはずだ。

あるいは、少なくとももう少し練った答弁が出来るまで採決を控えるだけの見識が存在していたはずだ。

 

私は問いたい。金田勝年法務大臣は、日本の法務行政を司る人間として適切なのか?
共謀罪を巡る彼の政府の答弁は、本当に納得のいくものであったのか?

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この答弁を聞いてほしい。この答弁を聞いて、未だに法務大臣の職責を担うことが出来る人間であると考えるのだろうか?

 

これまでも稚拙な答弁は度々あった。しかし、あの様な答弁しかできない大臣が、なんら代わること無く、法案が可決する、というのは異様である。(安保法制の時の中谷防衛大臣と比べてみよう。中谷大臣は少なくとも、真摯に誠実に答えていた)

 

どのような法律であれ、その疑問点や抜け漏れを指摘し、より良いものにブラッシュアップする、あるいはそれが不可能なまでも、議事録を積み上げることで運用に歯止めをかけるというのは重要なことだ。
それを金田法務大臣は、「成案が出たら答弁する」「通告がないから答えられない」の二つを、誠実な答弁を一切することなく繰り返したのだ。

 

2. 最終日に立法事実が代わる法案を、採決してよいのか?

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金田大臣 立法事実と今おっしゃいましたが、それはあくまで条約であると考えております

 

山尾志桜里議員 今の話で行くと、この国内治安、テロ対策は、立法ということではなくなったということですか?

最終日に、よもや立法事実が変わり、法を司る法務委員会で、委員でもない人間が採決を呼びかけ、採決が起こる。

 

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温厚な逢坂誠二議員の「これが法治国家なのですか」という言葉は、とても重い。

 

私は強い憤りを覚えている。それは、法案が可決したからではない。このように無意味な国会を延々見せつけられたことだ。

立法府の存在意義とはなんなのだろうか?今の政府は国会を「面倒な待ち時間」くらいにしか考えていないのではないか?

 

国会は確かに制度上、多数派にあらゆる法案を通す権限を与えている。しかし、仮に可決されるにせよ、その過程で懸念点や穴を塞ぎ、よりよい法案にし、未来にその法案を残すということは、立法府の議員の共通の責務ではないのか?

国会の審議とは、未来に向けて積み上げてきた国民の財産であるはずだ。

 

3. 国会が無力化した理由

なぜこのような事態が起きたのか。それは、少なくない人は「国会は無駄だ」と考えているからではないかと考えている。

 

もう少し言うと、「選挙で多数を取っていればそれは国民の合意事項であるはずで、だから多数派の政府に反対するのは『多数の国民』への冒涜だ」という感覚があるのではないだろうか。
 

「野党議員が本質的でない質問ばかりするからだ。だからそんな時間は無駄だ」と。あるいは、与党議員の方が本質的な質疑をしている、というかもしれない。

しかし、基本的に与党議員による質問というのは、提出法案の追認行為に過ぎない。(先日の河野太郎議員の質疑など、例外はある)
それは、提出された法案が問題ないことを確認するプロセスである。それは、政府の無謬さを補強するものでしかない。

 

法案の問題点を指摘する行為そのものを、少なくない人が「無駄」「いちゃもん」「クレーム」と捉えているのではないか。
 

しかし、どのような法案にも瑕疵はあるのである。それを議論の中で塞ぎ、必要であれば修正するのが国会の機能である。

もし問題点の指摘が不要であるとすれば、それは行政府が完璧である時だ。しかし、そんなことはありえない。 

4. 完全ではない政府をどう監視するか

行政府は完璧ではない。法案には過ちが必ず含まれている。人は神ではない。だからこそ、その過ちを明らかにするチェック機能が必須なのだ。


与党も野党も人間だ。片方が完璧な存在で片方が価値のない無能である、ということはあり得ない。不完全な我々が選んだ、不完全な人間たちが寄り集まったのが国会なのだ。

我々は常に、政府が間違いを犯すことを前提にしなければならない。今回のような、プロセスを無視した法案審議を私は見たことがない。これは明らかに異様である。

 

国会は無駄、という肌感覚が存在するとすれば、それは立法府の敗北である。
野党の質問を「時間の無駄」と切り捨て、政府がどんな不誠実な答弁をしようと気にしなくなった先に見える未来は、けっして心地いいものではない。

 

5. 国民が国民であるために

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先日、このような記事を書いた。

すると、「少しでも謝ったらレッテルを貼られるから謝るわけがない」という趣旨のコメントがついた。

 

これが、ある意味現在の多数の感覚であるように思う。それは認めざるをえない。

しかし、本来、政治家が謝罪する、というのは野党に対して謝罪するのではなく、国民に対して謝罪するということだ。

 

仮に謝罪や訂正が政治家にとって不利益だからと言って、それを求めるのは国民の権利ではないか。なぜ一国民が、与党の代弁者となって立場を忖度する必要があるのか? 

 

「この発言を訂正したら野党が批判から黙っておくことに賛成」
「大臣を変えたら野党が批判するから変えるのに反対」
こんな意見に、私は全く賛同できない。

 

与党と野党の対立の前に、政府と国民の健全な緊張関係、行政府と立法府の健全な緊張関係こそが、よりよい国家を作るのではないか?

 

6. 与野党の対立を超えて

今、与党議員一人一人の顔が見えなくなっている。本来であれば、与野党の支持の垣根を超え、間違ったことには声を上げなくてはいけない。政治はゲームではない。そこには勝ち負けはない。

 

この審議は本当に適切なプロセスに則って行われたのか?

金田大臣は、本当に政府与党の法務行政のトップとしてふさわしい人間であったのか?

高い有罪率、長い拘束など、日本の司法の問題点が解消されないまま、警察の権限を拡大して良いのか?

国会のあり方は、これで正しいのだろうか?

 

 

与党議員の皆さんは、一人一人、胸を張ってイエスといえるのだろうか。

 

政治は生活であり、終わりなき日常である。それは絶え間ない改善のプロセスであり、常にリスクをはらむものだ。だからこそ、立法府は、党派を超えて一人の人間として、必要なときには声を上げなくてはならないのだ。

 

理想論だろうか?しかし、政治から理想が失われたら、何が残るのだろう?