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人はどのように政治的な腐敗を見過ごすのか

本稿でいいたいこと

  • 私たちは何かを信じたいとき、「それは信じられるものなのか?」と自分自身に問う。
  • それに対し、何かを信じたくないときには、自分自身に「それは信じなくてはならないものなのか?」と尋ねる。 

加計学園問題について

ここ数日、加計学園問題などを眺めていて、その反応に驚きを覚えることが多かった。

最大の驚きは、専門家であるはずの方々から、あたかも「加計学園問題は国会で問題にすべきことではない」というような趣旨の言説が見られたことだ。

 上記で申し上げたとおり、加計学園問題は、行政のあり方、透明性、公平性と言った観点で極めて重要な問題である。誓っていうが、10年前にこのようなことが起こったなら今とは全く違った反応だったはずだ。

仮に全てが疑惑であり、永田メール事件のように単なる捏造であったのだとすれば、告発者側が責任を取らなくてはいけないはずだ。

 

政府は参考人招致も「呼ぶ必要がなく」、追加の調査も「行う必要もない」としている。これは問題の隠蔽と取られてもやむを得ないのではないか。

前川会見に関する反応

さて、本論に入る。先般、前川喜平・前事務次官が、いわゆる「総理のご意向」文書について、その存在を認める旨の会見を行った。

 

これに対する反応は様々だったが、政府の対応を支持する人も一定数いた。彼ら彼女らの反応を観察していたところ、そこにはいくつかのパターンがあった。

  1. 前川氏は出会い系バーに行くような人間だ。このような人間の言うことを信じる必要はない
  2. そもそも加計学園の問題は何ら問題ではない。なぜなら官僚が上司の言うことを聞くのは当たり前だからだ
  3. 獣医学部設置は日本の国家戦略の重要な課題だ、既得権益の反対によって獣医学部の新説が頓挫してはいけない
  4. 何があっても民主党政権よりはマシだ。こんなことで政権が倒れてはいけない

まあ他にも色々あるかもしれない。

 

興味深かったのは、加計学園問題を「問題ない」とする場合でも、そこには色々なパターンが有るということだ。

「仮に口利きしていたら問題だが、文書は偽物でありそんなことはない」というケースも「口利きしていても問題ない」というケースもあった。

 

つまり、ある種の問題に目をつぶるに対しても、そこには様々なやり方がある、ということだ。これは、なぜだろうか。

社会は左と右にわかれるのか

ジョナサン・ハイトの「社会はなぜ左と右にわかれるのか」という著作がある。道徳心理学という分野を扱った良書だ(この本の書評は後日書きたい)

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

 

 ここに、このような一説がある。 

社会心理学社のトム・ギロヴィッチは、異常な信念の認知メカニズムを研究している。彼の簡潔な定式化によれば、次のようになる。

 

私たちは何かを信じたいとき、「それは信じられるものなのか?」と自分自身に問う。

そして次に、それを支持する証拠を探し、一つでもそれらしきものが見つかると、そこで思考を停止してしまう。

それを信じる許可が下りたからだ。誰かが質問をしても、理由を応えられる。

 

それに対し、何かを信じたくないときには、自分自身に「それは信じなくてはならないものなのか?」と尋ねる。

それから反証を探し、たった一つでもそれが見つかれば、信じたくないものを放棄する。「しなければならない」の手錠を外すには、たった一本の鍵で十分なのだ。

 

心理学者はいまや、「人は自分の望む結論に達するために様々なトリックを使う」という「動機づけられた推論」の存在を示す証拠を、山ほど抱えている。

知能テストの成績が低いと言われた被験者は、IQテストの正当性に疑問を投げかける論文を好んで読む(のだ。) 

これは、極めて重要な示唆である。

 

何か自分にとって「不都合な事実」を見つけたとする。

しかし、現代において、インターネット上で、見つけようと思えばそれに対する反証はいくらでも見つかってしまう。

そして、例えば何か一つでも反証が見つかってしまえば、その「不都合な事実」は、もはや信じる必要が無いのだ。なぜなら、真実とは完全無欠でなくてはいけないからだ。

 

その人物が過去に「左翼的/右翼的」な発言をしていれば、「なるほどこいつは左翼/右翼だ!」と納得して、それで反証が完了したと思っている人もいる。

我々は真実とは完全なものである、それして、それは語り手の無謬性を含む、と考えがちなのだ。しかし、止まった時計が一日に二度正しい時刻を示すように、信頼できない語り手が真実を語ることもあれば、逆のこともままあるのだ、実際のところ。

しかし、我々は多くの場合、語り手の欠点、あるいは納得できないポイントを一つ見つければ、それを持って反証が完了した、と考えてしまう。(その意味では、前川氏に対する読売新聞の報道は極めて効果的であったといえるかもしれない)

 

政治、というフィールドで考えると、これは、実に難しい問題だ。

自民党にせよ民進党にせよ、抱えている問題はある。そして、双方の支持者が、相手の問題に目を向け続ける限り、永遠に議論は噛み合わない。

 例えば、野党が政府を追求すると、決まって政治家個人の過去の問題を批判するコメントが付く。しかし、本来、追求する人間の問題と、その疑惑や追求されている問題の真偽は全く別である。

 

昔は少し状況が違ったはずだ。なぜだろうか。

新聞やテレビは一つの問題について大きく取り上げたからだ。そして、今ほど情報が溢れていなかった。だから、その問題について「これは問題なのかもしれない」「これは支持政党であってもやはり謝罪すべきだ」と考える時間があった。

 

しかし、現在であれば、少し「これは信じたくない」と感じれば、どのような証拠でも探すことが出来る。いや、探す必要すらないかもしれない。Twitter を10分ほど見ていれば、自分の気にいる「証拠」が流れてくるだろう。

  

こういう実験も紹介されている。「共和党支持者(別に民主党でもいいが)に、共和党にとって不都合な事実を知らせると、不快感を感じるが、それを打ち消すような事実を知らされると、それ以上の快感を得る」

不都合な事実を打ち消すことは、人間にとっては大変な快感である。なぜなら、それまで築き上げてきた自分の信念(ビリーフ)を変えることは、大変な負荷のかかる行為だからだ。

 

だからこそ、アメリカ大統領選挙でもフェイクニュースが大変な話題になったわけだ。都合のいい「事実」を作ってくれるなら、人はいくらでもPVを発生させるのだ。

左右の対立を超えて

さて、ここからが私の本論である。

読んで頂ければわかるが、私は政府の対応を批判しているし、支持者の反応に対してもあまり気分の良い書き方をしていないかもしれない。しかし、このようなことは左右の立場を越えて起こりうる、と考えている。

民主党政権時代は民主党支持者が同じことをしただろうし、もし国民連合政府なるものが実現すれば、共産党支持者も同じことをするだろう。

 

私も、私の応援している政治家の不祥事が起きた時は、やはり私もまずそれを否定する解釈を Twitter でつい探してしまう。そういう心情は、誰しもあるだろう。

 

だからこそ申し上げたいのは、本稿を持って「ウヨクは/サヨクは」などと語ることは、本稿の趣旨を歪めることになる、ということだ。

そうではなく、我々はインターネットが普及した現在では、「不都合な事実」を極めて見過ごしやすい環境にある、ということである。(もちろん、デマが広まりやすいという言い方もできるが)

 

我々は自分たちが思っているほど頭がいいわけではない。逆の立場になれば、我々はいとも簡単に自分を正当化してしまうのだ。

逆の言い方をすれば、政府が支持者向けに強弁しやすい環境にあるとも言える。

 

だからこそ、事実が何より大事だ。我々は感情的な生き物だ。だからこそ、事実というフィールドで戦うべきなのだ。そして、国会とは本来、そういう場であったはずだ。

地道な答弁の整合性、きちんとした公文書の管理こそ、そういう国会を支えていたはずで、その点で考えるならやはり今の政府の対応は極めて問題である、という結論に至る。

政府は手続きに則った形での公文書の保存と、情報の透明性の担保を行うべきだ。公文書を廃棄したり、都合の悪いことを隠したりするべきではない。

 

歴史の検証に耐えうる政府を、我々は作らなくてはいけない。真実を検証し、光を当てなくてはいけない。そして、事実を元に冷静な議論をする環境を整えなくてはいけない。

そうしない限り、我々は常に真実から逃げ続けることが出来るのだ。

本稿のまとめ

  • 人は、都合の悪い結論には「たった一つでも反証できそうなこと」を探す
  • インターネット時代には、あらゆる物事に関して簡単に反証が手に入る(その真偽は別にして)
  • よって、自分にとって都合の悪い事実は、簡単に無視するための状況が整っている。