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人はどのように政治的な腐敗を見過ごすのか

本稿でいいたいこと

  • 私たちは何かを信じたいとき、「それは信じられるものなのか?」と自分自身に問う。
  • それに対し、何かを信じたくないときには、自分自身に「それは信じなくてはならないものなのか?」と尋ねる。 

加計学園問題について

ここ数日、加計学園問題などを眺めていて、その反応に驚きを覚えることが多かった。

最大の驚きは、専門家であるはずの方々から、あたかも「加計学園問題は国会で問題にすべきことではない」というような趣旨の言説が見られたことだ。

 上記で申し上げたとおり、加計学園問題は、行政のあり方、透明性、公平性と言った観点で極めて重要な問題である。誓っていうが、10年前にこのようなことが起こったなら今とは全く違った反応だったはずだ。

仮に全てが疑惑であり、永田メール事件のように単なる捏造であったのだとすれば、告発者側が責任を取らなくてはいけないはずだ。

 

政府は参考人招致も「呼ぶ必要がなく」、追加の調査も「行う必要もない」としている。これは問題の隠蔽と取られてもやむを得ないのではないか。

前川会見に関する反応

さて、本論に入る。先般、前川喜平・前事務次官が、いわゆる「総理のご意向」文書について、その存在を認める旨の会見を行った。

 

これに対する反応は様々だったが、政府の対応を支持する人も一定数いた。彼ら彼女らの反応を観察していたところ、そこにはいくつかのパターンがあった。

  1. 前川氏は出会い系バーに行くような人間だ。このような人間の言うことを信じる必要はない
  2. そもそも加計学園の問題は何ら問題ではない。なぜなら官僚が上司の言うことを聞くのは当たり前だからだ
  3. 獣医学部設置は日本の国家戦略の重要な課題だ、既得権益の反対によって獣医学部の新説が頓挫してはいけない
  4. 何があっても民主党政権よりはマシだ。こんなことで政権が倒れてはいけない

まあ他にも色々あるかもしれない。

 

興味深かったのは、加計学園問題を「問題ない」とする場合でも、そこには色々なパターンが有るということだ。

「仮に口利きしていたら問題だが、文書は偽物でありそんなことはない」というケースも「口利きしていても問題ない」というケースもあった。

 

つまり、ある種の問題に目をつぶるに対しても、そこには様々なやり方がある、ということだ。これは、なぜだろうか。

社会は左と右にわかれるのか

ジョナサン・ハイトの「社会はなぜ左と右にわかれるのか」という著作がある。道徳心理学という分野を扱った良書だ(この本の書評は後日書きたい)

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

 

 ここに、このような一説がある。 

社会心理学社のトム・ギロヴィッチは、異常な信念の認知メカニズムを研究している。彼の簡潔な定式化によれば、次のようになる。

 

私たちは何かを信じたいとき、「それは信じられるものなのか?」と自分自身に問う。

そして次に、それを支持する証拠を探し、一つでもそれらしきものが見つかると、そこで思考を停止してしまう。

それを信じる許可が下りたからだ。誰かが質問をしても、理由を応えられる。

 

それに対し、何かを信じたくないときには、自分自身に「それは信じなくてはならないものなのか?」と尋ねる。

それから反証を探し、たった一つでもそれが見つかれば、信じたくないものを放棄する。「しなければならない」の手錠を外すには、たった一本の鍵で十分なのだ。

 

心理学者はいまや、「人は自分の望む結論に達するために様々なトリックを使う」という「動機づけられた推論」の存在を示す証拠を、山ほど抱えている。

知能テストの成績が低いと言われた被験者は、IQテストの正当性に疑問を投げかける論文を好んで読む(のだ。) 

これは、極めて重要な示唆である。

 

何か自分にとって「不都合な事実」を見つけたとする。

しかし、現代において、インターネット上で、見つけようと思えばそれに対する反証はいくらでも見つかってしまう。

そして、例えば何か一つでも反証が見つかってしまえば、その「不都合な事実」は、もはや信じる必要が無いのだ。なぜなら、真実とは完全無欠でなくてはいけないからだ。

 

その人物が過去に「左翼的/右翼的」な発言をしていれば、「なるほどこいつは左翼/右翼だ!」と納得して、それで反証が完了したと思っている人もいる。

我々は真実とは完全なものである、それして、それは語り手の無謬性を含む、と考えがちなのだ。しかし、止まった時計が一日に二度正しい時刻を示すように、信頼できない語り手が真実を語ることもあれば、逆のこともままあるのだ、実際のところ。

しかし、我々は多くの場合、語り手の欠点、あるいは納得できないポイントを一つ見つければ、それを持って反証が完了した、と考えてしまう。(その意味では、前川氏に対する読売新聞の報道は極めて効果的であったといえるかもしれない)

 

政治、というフィールドで考えると、これは、実に難しい問題だ。

自民党にせよ民進党にせよ、抱えている問題はある。そして、双方の支持者が、相手の問題に目を向け続ける限り、永遠に議論は噛み合わない。

 例えば、野党が政府を追求すると、決まって政治家個人の過去の問題を批判するコメントが付く。しかし、本来、追求する人間の問題と、その疑惑や追求されている問題の真偽は全く別である。

 

昔は少し状況が違ったはずだ。なぜだろうか。

新聞やテレビは一つの問題について大きく取り上げたからだ。そして、今ほど情報が溢れていなかった。だから、その問題について「これは問題なのかもしれない」「これは支持政党であってもやはり謝罪すべきだ」と考える時間があった。

 

しかし、現在であれば、少し「これは信じたくない」と感じれば、どのような証拠でも探すことが出来る。いや、探す必要すらないかもしれない。Twitter を10分ほど見ていれば、自分の気にいる「証拠」が流れてくるだろう。

  

こういう実験も紹介されている。「共和党支持者(別に民主党でもいいが)に、共和党にとって不都合な事実を知らせると、不快感を感じるが、それを打ち消すような事実を知らされると、それ以上の快感を得る」

不都合な事実を打ち消すことは、人間にとっては大変な快感である。なぜなら、それまで築き上げてきた自分の信念(ビリーフ)を変えることは、大変な負荷のかかる行為だからだ。

 

だからこそ、アメリカ大統領選挙でもフェイクニュースが大変な話題になったわけだ。都合のいい「事実」を作ってくれるなら、人はいくらでもPVを発生させるのだ。

左右の対立を超えて

さて、ここからが私の本論である。

読んで頂ければわかるが、私は政府の対応を批判しているし、支持者の反応に対してもあまり気分の良い書き方をしていないかもしれない。しかし、このようなことは左右の立場を越えて起こりうる、と考えている。

民主党政権時代は民主党支持者が同じことをしただろうし、もし国民連合政府なるものが実現すれば、共産党支持者も同じことをするだろう。

 

私も、私の応援している政治家の不祥事が起きた時は、やはり私もまずそれを否定する解釈を Twitter でつい探してしまう。そういう心情は、誰しもあるだろう。

 

だからこそ申し上げたいのは、本稿を持って「ウヨクは/サヨクは」などと語ることは、本稿の趣旨を歪めることになる、ということだ。

そうではなく、我々はインターネットが普及した現在では、「不都合な事実」を極めて見過ごしやすい環境にある、ということである。(もちろん、デマが広まりやすいという言い方もできるが)

 

我々は自分たちが思っているほど頭がいいわけではない。逆の立場になれば、我々はいとも簡単に自分を正当化してしまうのだ。

逆の言い方をすれば、政府が支持者向けに強弁しやすい環境にあるとも言える。

 

だからこそ、事実が何より大事だ。我々は感情的な生き物だ。だからこそ、事実というフィールドで戦うべきなのだ。そして、国会とは本来、そういう場であったはずだ。

地道な答弁の整合性、きちんとした公文書の管理こそ、そういう国会を支えていたはずで、その点で考えるならやはり今の政府の対応は極めて問題である、という結論に至る。

政府は手続きに則った形での公文書の保存と、情報の透明性の担保を行うべきだ。公文書を廃棄したり、都合の悪いことを隠したりするべきではない。

 

歴史の検証に耐えうる政府を、我々は作らなくてはいけない。真実を検証し、光を当てなくてはいけない。そして、事実を元に冷静な議論をする環境を整えなくてはいけない。

そうしない限り、我々は常に真実から逃げ続けることが出来るのだ。

本稿のまとめ

  • 人は、都合の悪い結論には「たった一つでも反証できそうなこと」を探す
  • インターネット時代には、あらゆる物事に関して簡単に反証が手に入る(その真偽は別にして)
  • よって、自分にとって都合の悪い事実は、簡単に無視するための状況が整っている。

出会い系バーと文書の真偽は何ら関係ない。前川喜平・元事務次官の会見について

その日、私は文字通り驚愕した。

既に辞任した官僚の、私的な行動が、日本最大の新聞社の社会面に堂々と乗っていたのだ。週刊誌でもやらないような報道だ。既に辞任した事務次官の個人的行動にニュースバリューは大してないはずだ。

 

左右の思想の違いはあれど、これは明らかにジャーナリズムの一線を踏み越えた報道ではないか。

前川氏が何を語ったのか

まず申し上げたいのは、前川氏が極めて理性的に、かつ穏健に事実を語られていたことだ。

前川氏は、倒閣をしたいとも語っていない。誰かの責任を追求しようとも思っていない。松野大臣に関しても、自分の上司であったということだろうか、「気の毒だ」とおっしゃっている。

全体的に、文科省の後輩に対して大変配慮をされた内容であったのではないか。

では、なぜ前川氏は、わざわざリスクを負ってまで会見を開かれたのだろうか。

在職中に存在していた文書。確実に存在していた。あったものをなかったことにはできない

会見中のこの発言が全てではないだろうか。一つだけ、前川氏の発言の中で、伝えたかったことがあるとすれば、それは「文書は実在した」このたった一つである。

更に語られたもう一つの重要事項

もう一つ、前川氏が語った重要事がある。

  • 人材需要があるということが明確にならなくてはいけないが、明確になっていない
  • 四つの条件が必要である、ということが閣議決定されている。
  • 加計学園は、その四条件全てに合致していない。

つまり、当時の文部科学省(の事務方のトップ)は、このように加計学園が閣議決定に反していると明確に認識していたのだ。

にも関わらず、加計学園の国家戦略特区は認められた。これはとても重要なポイントだろう。

 

前川氏が言いたかったこと

私は、率直に言えば、文部科学省に対していい印象を抱いていない。日本の文部行政は失敗だらけだったと考えている。

更に、前川氏は天下りで辞任したわけで、その問題に関してはやはり、一定の責任があるだろう。

また、この「貧困の現場を知りたかった」というのが、にわかには信じがたい話であるのも事実である。だが、そんなことは全てどうでもいい。

 

仮に彼が出会い系バーに毎日出入りしていようが、援助交際をしていようが、それは証言の信憑性には影響しない。法的な問題があるなら法的な場で決着が付けばいい。

 

なぜ関係ないか。これは「元事務次官」としての発言だからだ。元事務次官が話している、その事自体が重要なのであって、彼の人間性は重要ではないのだ。

例えば、交通事故の目撃者がいるとしよう。彼が不倫をしていたら、目撃証言は無効になるだろうか?

 

前川氏は、文部科学省の事務方のトップであった。事実上、彼以上にこの問題に関して信頼性が持てる人間は存在しないはずだ。

www.buzzfeed.com

菅官房長官の「地位にしがみついていた」という発言は全く的はずれだ。

事実に答えずに告発者の人間性を貶めるのは、最も汚いやり方ではないだろうか?

 

文章は事実であった」これが前川前次官が訴えたかったたった一つのことであり、そしてこれは、ここまでの証言を見る限り否定しがたい事実である。

否定するなら、文部科学省と官邸は相応な調査をすべきだろう。しかし、その様子は全く見えない。つまり、現時点では事実であると考える他無い。

それが、前川氏があらゆるリスクを背負って発言した意味である。

 

前川氏の発言を最後にもう一つ紹介する。TBSのインタビューでの発言だ。

政府の中でどの様に意思決定が行われているのかを国民が知ることは民主主義の基本の基本。決して内閣の転覆を考えているわけではない

文部科学省は、一貫して「確認できていない」と語り、官房長官は「怪文書」と語る。白黒や真偽をはっきりする努力すらしていない。

これで民主主義が成り立つのか?という前川氏の指摘は正しい。

 

民主主義の前提は、事実が事実として認められた上で公平な議論がされることだ。事実が事実として機能しなくなれば、当然司法も立法も機能しない。

司法も立法も機能しなくなれば、その国家は民主主義国家とは呼ばれないだろう。

 

政府は、事実に明確に答えるべきだ。事実は誰が語ろうが事実だ。語り手の信用を貶めることで、真正面から議論に応じなくてもいい、と政府が考えているのであれば、それはあまりにも拙劣な対応であると言わざるをえない。

真理はたいまつである。しかも巨大なたいまつである。 だから私たちはみんな目を細めてそのそばを通りすぎようとするのだ。 やけどする事を恐れて。

ゲーテ

国家戦略特区での特権的な認可は、自由経済に逆行する縁故主義だ

 駒崎弘樹氏、三浦瑠麗氏が、加計学園に関する所感を発表されている。 

 

本稿はこれに対し、加計学園問題がいかに重要な問題であるかをまとめておきたい。 

 

 

 

加計学園実名文書の真偽

学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設計画に関する複数の記録文書の一つに、実名が記載されている日本獣医師会顧問の北村直人元衆院議員が18日、取材に応じ「(自分が登場する)文書に書かれた内容はほぼ事実だ」と証言した。 

加計学園をめぐっては、証言者、かつ元議員がこのように語る以上、「総理のご意向」と書かれた文章の信ぴょう性は相当に高いものと考える。また、次々にリークされる文章も合わせると、なんらかの総理の意図が反映されていることは疑い難い。

論者の焦点はそれがどの程度問題であるのか、というところに移ってきたのではないか。

個人的に驚きなのは「口利きや忖度はなかった」ではなく「総理の意を汲んだ口利きや忖度があったとしてもそれは問題ではない」という種の主張が、堂々と、見識ある方の口から飛び出ていることである。五年も前なら考えられなかったはずだ。

なぜ獣医学部の認可が問題なのか

まず、この国家戦略特区は、規制緩和・規制改革に真っ向から逆行するものであることを申し上げたい。

なぜなら、この国家戦略特区は

  • 一校のみ
  • 四国(空白地域)に限定して
  • 長くに渡って申請している学校に

与えられた認可であるからだ。これは、実質的には「加計学園ありき」で与えられた特権的な認可である。

かねてより準備を進め具体的提案を行ってきた自治体を中心に、具体的プロジェクトとして、実際の獣医学部の立ち上げを急ぐ必要があり、そのための規制改革、すなわち関係告示の改正を、直ちに行うべきである

という決定がなされ、更にその後京都産業大学が応募してきた時に「獣医学部の空白地域に限る」という点を付け加えたことになっている。

 

これにより、畜産との関わりも深く、ノーベル賞受賞者の教授までいた京都産業大学が、その規制により頭ハネを食らっている。 

 

また、昨日の小池議員の質疑により、原案であれば京都産業大学が参加可能であったところ、あえて条件を絞ることで一本化されたことも示唆されている。

 

www.asahi.com

これは、意図的に京産大をレースから除外した、と言われてもやむを得ないのではないか。

加計問題の本質

実は、この問題の本質は、加計学園が認可されたことではない。京都産業大学(や、その他の希望する大学)が不当な理由で認可されなかった、あるいはスタートラインにすら立てなかったことにあるのだ。

公平なルールに則って市場の判断に任せるのが自由市場の大前提である。加計学園のケースは、もはや市場原理主義にすら値しない。

 日本人のメンタリティーに、国家が社会的な供給量を決めてしまう、社会主義が浸透してしまっているのでしょうか。社会主義はどんなに頑張ってもうまくいきません。

三浦氏は獣医学部新設への規制は不要の規制と述べ、作りたい大学は作ればいい、無用に大学の数や学部数をを規制するのは社会主義的だ、ということを述べられている。

しかし、今回のケースこそまさに「社会主義的」ではないか?とりたてて理由もないのに、特定の大学が申請すらできなくなった様子こそ、役人の胸先三寸で全てが決まった東ドイツやソ連を思い起こさせる。

教育への国費投入の増加は間違いなく、国家による介入と統制を伴うでしょう。

また、私はその論の前提となる「大学教育への公的支出は不要」という論旨にも反対だ。日本がOECD加盟国の中で教育への公的支出が最も低いレベルにあることは周知の事実である。

しかし、日本よりも経済の自由度ランキングで上位に位置するフィンランド・エストニア・デンマークなどは教育への公的支出が多いことで知られている。

経済自由度指数 - Wikipedia

つまり、教育公的支出の拡大は、自由市場経済を脅かしたり、ましてや日本のソ連化を招くものではない。むしろ、教育への公的支出の拡大は日本の国際競争力担保のためには喫緊の課題である。

 

だからこそ、大学認可の公平性は重要な問題である。これが担保されなければ、教育予算に対しても疑問符がつけられかねないからだ。

 

旧共産圏の最大の問題は、デュー・プロセスの機能不全と監視機能の崩壊だった。

計画経済の破綻や大躍進政策の失敗は巧妙に隠され、物資は不足し多数の餓死者が出たが誰も責任を取ることがなかった。それにより経済が大きく停滞したことは論を待たない。公正さは経済の潤滑油だ。

 

縁故主義や利益相反や、その他もろもろの不公正を生む土壌を無くし、腐敗を一掃することこそ、本来の市場の機能を取り戻すのに、必須なのだ。

加計学園をめぐる利益相反

やはり同学園が運営する千葉科学大学では、安倍総理最側近の萩生田光一官房副長官(53)が「小遣い稼ぎ」をしていた。

萩生田氏は、安倍総理の代理として靖国神社に玉串料を納めるなど重用され、総理の政界における「まさに腹心の友」で、先の日米首脳会談にも同行した。そんな萩生田氏だが、

「09年の総選挙で落選して以降、千葉科学大学危機管理学部で客員教授を務めています」(政界関係者)

 そもそも、加計学園の獣医学部新設の前提は、2015年12月、国家戦略特区に今治市が指定されるのが決まったことにあるのだが、

「翌年4月から、文部科学省の役人ふたりが加計学園に天下りしています」と、福島氏は説明する。

「そのひとりの木曽功氏(元文部省高等教育局私学部私学行政課長)は、安倍内閣で内閣官房参与を務めていた安倍総理のお友だちと言えます」

福島議員が語るように、加計学園に関しては、総理側近や行政府の人間による利益相反の疑いもある。

諸外国の常識に鑑みれば、このような状態で、「大した問題ではない」という学者がいる、という方がよほど「ソ連的」ではないか。 

最後に

駒崎氏はこう語っている。

国家戦略特区は、この国に溢れる意味のない規制を改革する、唯一と言って良い武器です。それが、どこが悪いのかいまいち不明瞭な加計学園問題によって抑制されて、改革の武器を失ってしまうのは、国益を失うことと同義です。

規制改革は必要だが、それは公平なデュー・プロセスが担保された上で成り立つべきものだ。

 

特権的な認可は、規制改革ですらなく、掃いて捨てるほどある単なる縁故主義にすぎない。

このような縁故主義に対して立法府が監視機能を果たすことこそ、真に「国益」を失わないために重要ではないだろうか。

国会が無力化した夜

 共謀罪(テロ等準備罪)法案を巡って、国会は完全に無力であった。

 

法案が可決したからではない。法案が可決することは、かねてから予測できていたことだ。

議院内閣制のもとでは、原則的に政府提出の法案は100%可決する。法案が可決したことだけを見れば、それは当たり前のことだ。しかし、その過程において国会は無力であった。

 

以下、共謀罪真偽をめぐる疑問点を提示したい。

 

1. 金田大臣は本当に法務大臣として適切な人間なのか?

かつての国会には、少なくともあのような稚拙極まりない答弁をする人間を、より適切な人間に変更するだけの自浄作用が働いていたはずだ。

あるいは、少なくとももう少し練った答弁が出来るまで採決を控えるだけの見識が存在していたはずだ。

 

私は問いたい。金田勝年法務大臣は、日本の法務行政を司る人間として適切なのか?
共謀罪を巡る彼の政府の答弁は、本当に納得のいくものであったのか?

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この答弁を聞いてほしい。この答弁を聞いて、未だに法務大臣の職責を担うことが出来る人間であると考えるのだろうか?

 

これまでも稚拙な答弁は度々あった。しかし、あの様な答弁しかできない大臣が、なんら代わること無く、法案が可決する、というのは異様である。(安保法制の時の中谷防衛大臣と比べてみよう。中谷大臣は少なくとも、真摯に誠実に答えていた)

 

どのような法律であれ、その疑問点や抜け漏れを指摘し、より良いものにブラッシュアップする、あるいはそれが不可能なまでも、議事録を積み上げることで運用に歯止めをかけるというのは重要なことだ。
それを金田法務大臣は、「成案が出たら答弁する」「通告がないから答えられない」の二つを、誠実な答弁を一切することなく繰り返したのだ。

 

2. 最終日に立法事実が代わる法案を、採決してよいのか?

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金田大臣 立法事実と今おっしゃいましたが、それはあくまで条約であると考えております

 

山尾志桜里議員 今の話で行くと、この国内治安、テロ対策は、立法ということではなくなったということですか?

最終日に、よもや立法事実が変わり、法を司る法務委員会で、委員でもない人間が採決を呼びかけ、採決が起こる。

 

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温厚な逢坂誠二議員の「これが法治国家なのですか」という言葉は、とても重い。

 

私は強い憤りを覚えている。それは、法案が可決したからではない。このように無意味な国会を延々見せつけられたことだ。

立法府の存在意義とはなんなのだろうか?今の政府は国会を「面倒な待ち時間」くらいにしか考えていないのではないか?

 

国会は確かに制度上、多数派にあらゆる法案を通す権限を与えている。しかし、仮に可決されるにせよ、その過程で懸念点や穴を塞ぎ、よりよい法案にし、未来にその法案を残すということは、立法府の議員の共通の責務ではないのか?

国会の審議とは、未来に向けて積み上げてきた国民の財産であるはずだ。

 

3. 国会が無力化した理由

なぜこのような事態が起きたのか。それは、少なくない人は「国会は無駄だ」と考えているからではないかと考えている。

 

もう少し言うと、「選挙で多数を取っていればそれは国民の合意事項であるはずで、だから多数派の政府に反対するのは『多数の国民』への冒涜だ」という感覚があるのではないだろうか。
 

「野党議員が本質的でない質問ばかりするからだ。だからそんな時間は無駄だ」と。あるいは、与党議員の方が本質的な質疑をしている、というかもしれない。

しかし、基本的に与党議員による質問というのは、提出法案の追認行為に過ぎない。(先日の河野太郎議員の質疑など、例外はある)
それは、提出された法案が問題ないことを確認するプロセスである。それは、政府の無謬さを補強するものでしかない。

 

法案の問題点を指摘する行為そのものを、少なくない人が「無駄」「いちゃもん」「クレーム」と捉えているのではないか。
 

しかし、どのような法案にも瑕疵はあるのである。それを議論の中で塞ぎ、必要であれば修正するのが国会の機能である。

もし問題点の指摘が不要であるとすれば、それは行政府が完璧である時だ。しかし、そんなことはありえない。 

4. 完全ではない政府をどう監視するか

行政府は完璧ではない。法案には過ちが必ず含まれている。人は神ではない。だからこそ、その過ちを明らかにするチェック機能が必須なのだ。


与党も野党も人間だ。片方が完璧な存在で片方が価値のない無能である、ということはあり得ない。不完全な我々が選んだ、不完全な人間たちが寄り集まったのが国会なのだ。

我々は常に、政府が間違いを犯すことを前提にしなければならない。今回のような、プロセスを無視した法案審議を私は見たことがない。これは明らかに異様である。

 

国会は無駄、という肌感覚が存在するとすれば、それは立法府の敗北である。
野党の質問を「時間の無駄」と切り捨て、政府がどんな不誠実な答弁をしようと気にしなくなった先に見える未来は、けっして心地いいものではない。

 

5. 国民が国民であるために

www.yomu-kokkai.com

 

先日、このような記事を書いた。

すると、「少しでも謝ったらレッテルを貼られるから謝るわけがない」という趣旨のコメントがついた。

 

これが、ある意味現在の多数の感覚であるように思う。それは認めざるをえない。

しかし、本来、政治家が謝罪する、というのは野党に対して謝罪するのではなく、国民に対して謝罪するということだ。

 

仮に謝罪や訂正が政治家にとって不利益だからと言って、それを求めるのは国民の権利ではないか。なぜ一国民が、与党の代弁者となって立場を忖度する必要があるのか? 

 

「この発言を訂正したら野党が批判から黙っておくことに賛成」
「大臣を変えたら野党が批判するから変えるのに反対」
こんな意見に、私は全く賛同できない。

 

与党と野党の対立の前に、政府と国民の健全な緊張関係、行政府と立法府の健全な緊張関係こそが、よりよい国家を作るのではないか?

 

6. 与野党の対立を超えて

今、与党議員一人一人の顔が見えなくなっている。本来であれば、与野党の支持の垣根を超え、間違ったことには声を上げなくてはいけない。政治はゲームではない。そこには勝ち負けはない。

 

この審議は本当に適切なプロセスに則って行われたのか?

金田大臣は、本当に政府与党の法務行政のトップとしてふさわしい人間であったのか?

高い有罪率、長い拘束など、日本の司法の問題点が解消されないまま、警察の権限を拡大して良いのか?

国会のあり方は、これで正しいのだろうか?

 

 

与党議員の皆さんは、一人一人、胸を張ってイエスといえるのだろうか。

 

政治は生活であり、終わりなき日常である。それは絶え間ない改善のプロセスであり、常にリスクをはらむものだ。だからこそ、立法府は、党派を超えて一人の人間として、必要なときには声を上げなくてはならないのだ。

 

理想論だろうか?しかし、政治から理想が失われたら、何が残るのだろう?